王地山焼は、江戸時代末期の文政年間(1818~30)、当時の篠山藩主であった青山忠裕(あおやまただやす)が篠山城下町の王地山の地に築いた藩窯です。
三田藩で青磁焼成に成功した京都の名工、欽古堂亀祐(きんこどうかめすけ)を招いて指導させました。製品は、青磁・染付・赤絵などの中国風の磁器を模したものが多く、手彫りの土型で素地を型押し成形するなど、繊細かつ高度な技術をもって作られていました。
当時、大名たちの間では、茶器を焼く藩窯を持つことが流行していました。また、藩主の社交や藩内の産業育成などが開窯の背景であったと考えられています。篠山藩や地元の豪商などの保護もあり、嘉永年間(1848~54)の最盛期には幾多の気品ある作品が焼かれていましたが、明治2年(1869)廃藩置県を目前にして廃窯の運命となりました。
現在の王地山陶器所は、廃窯から100年以上の時を経た昭和63年(1988)に、同じ王地山の麓に復興されました。
独特の緑色の青磁、染付、赤絵などの作品を当時の技法を使って製作しています。